富士と鳴門の仕組み:2

本日もお越し頂きありがとうございます。

なぜ、お読みとか

ご覧いただきと言わずに

お越しなのかと申しますと

意識の移動、視点の変遷は、肉体の移動と

同じことであるという、そういうつもりで

申しております。

基本的に私達は、一生、お尻の上から移動することは

ないということですね。


さて、

鳴戸の仕組みです。


前回、引き換えにしないで

開示していくと申しましたが、

人の考えるという能力

自ら氣付くという能力

を減衰することになっては元も子もないので

何でもかんでも開示すればよいというわけでもありません。


武道の世界でも、危険な技は特別なときしか

開示しないというのが条理です。

これは、出し惜しむというのではなく、

扱いを誤る危険性を懸念してです。


知識は確かに、力でありますが

生兵法は怪我の元というように、

安易に伝えるわけにもいかないのです。


それでも、器がよければ

とうぜんそれだけの、お役に立つ話を

しているとは思っています。

そうでなければ書けません。


では、鳴門の仕組みとは

なんなのか、


まず22の仕組みが、富士の仕組みでした

ですから、

10の仕組みが、鳴門の仕組みといえます。


十に成るということは、

十進法ということです。


桁が上がっていくということ、

それが螺旋状に続いていくということです。


・・・なんだ、そんな事かと思われるでしょうけれど


考えてもみてください、

数字を扱う

数えるということがどういうことであるか、


私達は、数をかぞえることが出来るのが

当たり前すぎて、そのことを考えることも

ありません。

数理や数式を考えること、

ようは算数や、数学が考える対象であっても

数えるということ

位があがるということ

などを、考える

すなわち、カムガエてみる

ということをしてはいないと思います。


これだけでも、

こころみて頂く価値はあると思いますが、


せっかくですので、

続けます。


鳴戸は、成る十と解せますが

鳴る十とも解せます。


なる、じゅう?


10が鳴る?


さて、なぞなぞになってきました。

謎とは、掛詞、カケコトバです。

ナゾルといえば、どういう行為のことをいうでしょうか?


お手本をなぞる、ようは

上から同じように、真似てやってみる

という事をさします。


ですので、鳴戸の仕組みを

なぞってみましょう。


それは、その事を言った、行った(いった)

存在の思考を追ってみるということ、

名探偵の推理は、犯人の思考をなぞるわけですね。


では、

なぜ、渦の仕組みとか

10の仕組みなどと言わずに

鳴戸の仕組みなのでしょうか?


鳴門の渦と言えばどこにあるでしょうか?


そう、淡路島と、徳島の海峡にできる。


徳島は阿波の国とも呼ばれます。


阿波の國に繋がる路で、淡路島


あわじしまです。


ア・ワ・字・しま


アからワへの字の縞(模様)


おわかりになりましたでしょうか?


そうです、

五十音図のことです。


アからワの10の字といえば


アカサタナハマヤラワ


の10文字になります。


で、何なの?

そう、現代人は聴くかも知れません。

それで何になるの?

卑近ないいかた

儲かるの?得するの?

というのが、幅をきかせている。

要は、脳みその容量を圧迫している


幅をきかせ過ぎていると、

教えてくださったのは

須佐之男の神様です。


そういう言い方を

意識や思考にもちいることを

示唆してくださったという意味です。

思考空間を、物理空間と同じ論法で

語ると理解しやすいということです。


話がそれたようですが、

数えるが当たり前にできると

省みることがないのと同じで

普段使っている言葉を

省みることがあるかどうか?


そもそも、五十音は、根底なのです。

大前提です。


そこが得心できておらず

腑に落ちておらず

肚に座っていなければ

浮ついてしまいます。


ようは、ほとんどが

妄想でしかないということです。

妄想とは、

この所謂、現実世界にリンクしていない

根無し草的な考え方のことです。

ですので、

妄想には実行力はありません。


みみさわり、めさわりの

良いことを言う人は沢山いますが、

その人の内実は、SNSなどではわかりにくい、


顔を修正してくれるアプリのように誤魔化せる。

実際にあったら、内臓の痛みが

皮膚にもろ出しになっている、

化粧でごまかすこともできません。

化粧ノリが違いますからね。


ですから、

いわば、ものごとを理解するための内蔵

にあたる五十音を省みるということは

目に見えないけれど

重要な働きをしているところを

あらためて感じるということになります。


体調がわるい

氣分がわるい

氣持ちがわるい

のは勘違いではなく


内臓の弱りです。


これから不透明な時代

先行きを危ぶまれる時代を

どう生きるのか?

というときに

そもそも

先行きが見通せるような考え方を

できるような自分であったか?

なぜ、今を生きず、将来に不安を

持ち越して、不安を想定している自分なのか?

を省みること、

それが、日の本の民である私達が

使う五十音を理解しようとする、という

意味になろうかと思います。


これが、なんの得になるでしょうか?


そもそも、

何が「得」で「損」なのか

すら、自らをもって出した答えであるかも

判然としていないと思います。


例えば、誰かに席を譲ることは損ですか?


そういう、根本の

すべてがそこから始まり

そこに積み重なっていく土台のようなもの

それを、かえりみたことがあるか?

ということです。


さー、

言靈と、数靈の対応は前回述べました、

ということは、

鳴るとの仕組みは、当然

渦の仕組みをも含んでいますから


螺旋、を理解しなければなりません。


縄文というのは、

螺旋上の縄の文様で

生命の生成化育をあらわしていると言われます。

ようは、生命の実相を模している。


螺旋は、一周しても同じところには帰りません。

螺旋階段は、上下するためにあるわけで、

丸い踊り場のことではないように

位相がかわります。

そう、「位」がかわるのです。


官位というように、

漢語のイメージにとらわれると

とたんに、上位みたいな優劣貴賎のような

概念に侵食されます。


思い出してください、

「これっくらいの、おべんとばっこに」

の、「くらい」です。


どれ、くらい?

あれ、くらい?


の、「くらい」


ようは、状態のことです。

しかも、あれくらい、と明示できるように

見て分かる、指し示すことができる

状態です。


「何となく漠然とした、くらい」

という言い方は変です。


軽自動車ぐらいの大きさの

鹿を見たんだよ、

とか、えんぴつくらいの細さ

などといえば例文になります。


まとめますと

私達は変わらない主体が

言葉を発しているだけなのではなくて

言葉を発する、

もっといえば

五十音をもとに、想う、考える

などをするだけで、

状態が、現れが、かわっているということです。


なーんだ、そんなことか、

と思われたでしょうか?


私達は

パソコンに繋がれたスピーカーでは

ありません。

音を発する言靈を成す主体なのです。


時計は、針が一巡して

同じ時を刻んでいるように錯覚します。


平均律といわれる西洋音階は

自然に、だんだんと高くなっていく音を

平均的に割って、一オクターブ高いならびにも

転調できるとうにできています。

これは、円運動の繰り返しであり

螺旋状の変遷とは言い難い。


状態を変えたくない

同じであり続けたい

と思っても

そうは行かない、


そもそも、おそらく「靈の元の民」

は、変わらないでおこうとか

そのままでいたい、というような

観念事体がなかったか、

希薄だったのではないかと思います。


天地は生成化育しとどまるところを知らない

一説では、タオのことを老子様の一族に

伝えたのは、日の元の民であったと言われます。


そうであれば

老荘思想が、儒教的な典礼重視のものにならずに

”日本人”へ親和性があるのかが分かるような氣がします。


鳴門の仕組みを理解して

五十音、言靈をもちいるなら

自ら生成化育し、とどまる所をしらず

常に中今に新しい自らがくらいしている

ことを感じることができる


といえましょうか。


さてさて、どれくらいの自分なら

満足でしょうか?

あのひとくらい?


わたしくらい、しあわせものは居りません。


と言いたいものですね。


では

続くかどうかは、

螺旋の先に委ねましょう。



本日も、

お読み頂き

ありがとうございました。


彌栄ましませ、イヤサカマシマセ


合掌






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