Concept - 想い
何者として生きるか?
如何に生きるのか?を考えるとき、
いったい自分は何者なのかを、観ずに知らずに居られるでしょうか?
自分はいったいどんな存在なのか?
私達は当然、「人」です。
人間という言い方がありますが「じんかん」と読むこともあります。
あらゆる物事は関係で成り立っています。
人は人と、そして森羅万象と関わって存在している。
私達は人類として、人体を通して意思疎通し、行動し、生かされています。
空氣や水、食物、天地自然の中で生かされています。
根源的には、私達は生命です。人として生きている命。
ほかの姿の命と交流していないと途絶えてしまう存在です。
私達は、生命活動を通じて、社会を形成し、文化、文明を作り出してきました。
私が、こうして日本語で書き、表現できるのは、日本民族であるからです。
ヤマト言葉があり、漢字があり、平仮名があり、海外の言葉を咀嚼して
組み込んできた、その流れのなかにある存在として、民族性を持っている。
その土地土地で気候風土、産物の違いがあり、人々は様々な生活様式を
作り出し、適応し順応し、そうして生活している。
ですから、自分とは何者かを問うならば、すべての関係の中に
見いだされる自分を知るということに成ろうかと思います。
では、ここで「神衣ーkamui」についてお話したいと思います。
古来より、日本では「神」という言葉がありました。
現在の私達は、海外の言葉に触れて、その言葉を取り入れるにあたって
翻訳して理解するということをしてきました。
そして、「神」の訳は「God」であるとされています。
しかし、西洋の一神教的なゴッドと、日本民族のいう「神」は随分違います。
長くなりますが、本居宣長先生(1730-1801)の「古事記伝」から”かみ”の
定義を抜粋します。
「凡(すべ)て迦微(かみ)とは、古の御典等(みふみども)に見えたる
天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、
其を祀れる社に坐す御霊をも申し、また、人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐい、
海山など、そのほか何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏き物を
迦微とは云うなり。・・中略・・
大かた一むきには定めては論(い)いがたき物になむありける」
と記されています。ご存じの通り八百万の神々と申すように、様々であると、
敷衍致するならば、尊きと思うものは皆、「かみ」であると言い得るかもしれません。
神という言い方の他に、アイヌの方々は、「カムイ」といわれます。
火のカムイや、水のカムイなど、やはり八百万の神々と同じと近しく感じます。
「神」という漢字を分解すると「示」と「申」になります。
「申し示すもの」それが「神」であるならば、
自ら語り、みずからを指し示すもの、それは神であると、
「神衣ーkamui 」は、自らを生き、その生き方で語り
在り方を指し示す者が、まとう衣、
そう定義し、それに相応しいものを世の中にだしていく
それを理念ーコンセプトとしていきたいと思います。
そして、命はそれぞれの姿という衣をまとっているとしたならば
天地自然もまた、私達の衣であると言えます。
故に、天地自然を整え、世の、人の、万物のためになる事物もまた
「kamui」の取り扱うものとして、紹介していければと考えています。
私とは?Designer
清水 晶
素直に生きるお手伝い。素生家:神衣
兵庫県姫路市出身
幼少時、神様大好きな子として育つ。
父は大工、5人兄弟と祖父母の世話をする
母のもとに生まれる。
高校時代より、夜学に通いながら大工作業を手伝い
卒業後、デザイン専門学校にて学ぶ。
空手と合氣道を稽古させていただき、
心身の探求を始める。
叔母の病気をけいきに、健康に関しても
学びはじめ、今に至る。
健康問題や、環境問題など、問題解決のために
生きるということは、問題を作り出す可能性が
あると考え、全ての問題がなくなったとしたら
何をするかと問、ハンドパンを始める。
服飾デザイナーの博子さんと結婚し、
グラフィックデザインから、ファッションや建築など
デザイン分野の視野を広げる。
店舗の内装、ファサード、施工、
販促物、店内掲示物、パッケージ
ロゴマークなど制作。
自らを知り、自分で自分を整える
アキラメソッド(健康体操)教室や
みんなの生きる話、として講演
ハンドパン奏者として、演奏活動
千座神業・チャクラセミナーを全国にて開催。
※プロフィール写真は、
インド仏教の最高指導者、佐々井秀嶺上人が
尾道にて講演された際、入場時に演奏をさせていただいたときのもの。
Photographed by Tomoko Mishina