喧騒の國
今日もお日柄よく
氣持ちのよいお湿り加減です。
夜半の雨に、残り雲
川向うの山から小鳥がさえずって
美しい余韻を響かせ、
裏山の小鳥が、また応え返しています。
風と雨粒が草木を鳴らして、
天地の声が木靈(こだま)している。
さて、
いつぞや見聞きしたか、もう覚えておりませんが
ずっと忘れずに覚えている物語があります。
童話ですが、昔から語り継がれているのか
最近の創作なのかは定かではありませんし
作者もわからないし、タイトルさえ判然としませんし
内容は大雑把に覚えているという程度なのですが
昨今の状況をみて、思い出したのです。
では、うる覚えながら、
そのお話の概要をどうぞ。
昔むかし、
どこかの大陸のとある國に
たいそう変わった王様がおられました。
何がかわっているかと言うと、
王様は、ウルサイのが大好きだったのです。
大きな音や騒がしいのが大好きで、
もうその國中で、
あっちでガチャン!ガチャン!
そっちで、ドンガラガッシャン!
こっちで、ガンガン、ゴンゴン、
扉を締めるときは、めいいっぱい強く
バタンバタンと閉めるし
歩くときは、ドンドン、バタバタと踏み鳴らしていきます。
みんな大声で話して、
もう、朝から晩まで、いえいえ、
夜の間でさえも、一日中一年中、そんな調子でした。
そんな國のとある日に
ある人が、こう言ったんだって
「王様の誕生日に、みんなで一斉に大きな音を出して
王様へ贈ったらどうだろう」
それを聴いた人たちは、それはいいと
口々にみんなに伝えていきました。
國中にその話が伝わった頃
また、ある人がこんなことを言ったそうです。
「ちょっとまてよ、みんなが一斉に大きな音を出すときに
自分も大きな音を出したら、どんなに大きな音が鳴るか
聞けないじゃないか・・・。
ここはひとつ、自分だけ鳴らすふりをして
どんなに凄い音がするか、聴いてみよう」と
その人は、そのことを、親しい友だち一人にだけ
話したところ、
その友達も、それはいい考えだと、自分も
そうして聴いてみようと思いました。
その人もまた、友達にそのことを話して・・・
そうして、みんなで大きな音を一斉に出そう
という企画の裏で、それを自分だけ聴こうという
アイデアが広がっていきました。
さー
王様の誕生日の朝です。
一斉に音を出す予定の時間が近づいて、
みんな手に手に鍋やら、フライパンやら
ラッパやら太鼓やら、なんでも大きな音の鳴るものを
準備して、待っていました。
そして、その時がきました、
せーの・・・・
・・・・・
・・・・・・・・
しーーーーーーーーーーーん
今までにない
静寂・・・・・・。
そう、せーので皆、
一世一代の大きな音を聞き逃すまいと
固唾をのんで聞き耳を立てていたのです。
王国の歴史ではじめて
静寂が広がっていました。
王様は、喧騒の國に生まれて
初めて、静寂を体験しました。
・・・・・・
それから、その國はどうなったか・・・。
世界中でもっとも静かな
静寂の國と呼ばれるようになったそうです。
おわり。
ということで、
話の筋はこんなところです。
いかがでしょうか?
わたしが、昨今のことをみていて
このお話が思い出される理由がおわかりになったかと思います。
私は、物理法則も精神に関与していると
思っているところがあって
慣性の法則というものがありますね、
一度動き出したものは
外部の力が関与しなければ、動き続けようとする
というようなことですが
精神とか心の話でいうと、惰性でやっていること
意図しない習慣とか、慣習みたいなものが
精神てきな慣性の法則だと考えているのです。
お話の王国では
ずーっとウルサイ状態で
それが当たり前、
生まれてくる國がそこなら
生まれたときから、大きな音が
鳴り響いていて、それが日常
では
私達の暮らしはどうでしたでしょうか、
朝は目覚まし時計で起こされるのが当たり前
テレビで朝からニュースやワイドショーをみて
テレビの上の方に時間が点滅していて
ネクタイをきっちりしめてコメンテーター
ニュースキャスターが標準語で無表情ではなし
時報の音で忙しなく出かけて
ラッシュアワーに、渋滞に
コンビニで菓子パンや缶コーヒーを買い
車中で食べて、出社する・・・。
上司と部下と、事業者と顧客
みんなそれらしく振る舞う
全ての机の上にはパソコンがあって
オフィス中に、カーソルを打つ音が響き
電話のなる音が響き、している。
45分の昼食時間には
コンビニか、300円の牛丼で
残業しては
栄養ドリンクと呼ばれる
無栄養のカロリー飲料を流し込んでいく
どうもそれは翼を与えてくれるそうだけれど
どこへ飛んでいくための羽なのかは
説明されない。
かわいいイラストのCMだから
きっと心身の健康を考えてくれていて
素晴らしい世界に連れて行ってくれる羽のはず
コンクリートの高層階に
帰ったら、深夜放送が待っていて
疲れて落ちてしまうまで、
飽きることはない
そして、目覚まし時計が鳴る
まったくの妄想の想像の誰かの
生活をイメージしてみましたが
紋切りというか、ステレオタイプな
生活洋式?ですけれど
昔話でしょうか・・・・?
昨日、
土佐清水のマスターとお話していて
変わりたいという人が
生活が変えられないのはなぜか?
という話になって
私は以前から、テレビが家にある状況では
変わりづらいと考えていると言いました。
テレビはその番組の内容にかかわらず
一方通行です。
パソコンはインタラクティブ、双方向ですから
こうやって発信することもできますが、
テレビは、一方的に発信していて
こちらは、チャンネルをかえるか、
切るかしかできない。
ようは、受動的な態度が前提なんです。
テレビの画面が大型化して
それがステータスであり
それが一番重要な場所を占めている・・。
そんな受動的な態度で
能動的に変われると考えほうがおかしいと
思います。
でも、テレビがある世界、
テレビが、家族の会話より重要だと
主張しているような國に生まれてきたら
薄い画面のなかの、電子音のほうが重要だと
暗に表現されている世界に生まれてきたら
どうなるでしょうか?
喧騒の國と静寂の國・・・。
今回も
お読み頂き
ありがとうございました。
彌栄、マスマスイヤサカエマセ
合掌
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