一寸の虫にも五分の魂

こんにちは。

本日もお越し頂きありがとうございます。


さて、

タイトルは

「一寸の虫にも五分の魂」

です。


魂という言葉も

日常的に聴くことは少ない現代ですし、

尺貫法もつかわなくなってきているので

(尺貫法というは、長さの単位に尺、

質量(重さ)の単位に貫を基本の単位とすること)


メートル法が基本として使われることが多いので

モノサシではなくて、メートル定規しか

日常的にみなくなりましたね。


一寸、一分、一厘、一毛

と順に単位が小さくなっていきますが

十分の一になっているのは、センチなどと同じで

十進法の部類です。

ですので、一寸の虫にも五分は

半分は魂ということになります。


すでに、死語ともいえる

一寸の虫にも五分の魂

これは、標語的に解するなら

「命を大切にしましょう。」

というようなことに思われがちですし

実際それで間違いでもないので

それはそれでいいのですが、


本日この言葉を持ち出したのは

もう少し、違う意味があります。


私達は、奇跡の世界に生きていますので

それが、あたかも当たり前であるとおもっても

致し方のないところですが、

やはりそれが行き過ぎると、奇跡の世界を

破壊し尽くしてしまうので、

「魂」や「天」などの形而上の言葉を

意識させる言葉が残されています。


形而上というのは、メタ・フィジカ

すなわち、フィジカはフィジカルのことで身体

メタは超越するというような意味なので

身体的世界を超えた世界ということになります。


ようするに、半分は体だとして

そのあと半分は、魂であり

その魂の領域ということと言えましょうか。


すこし、話はそれますが

甲虫類、カナブンとかカブトムシとか

蚊やミツバチなどよりも、大きな体の虫がおりますが、

かれらのような大きな鎧のような体で

空が飛べるというのは、実は謎だそうです。

航空力学というのも発展途上だそうで

ジャンボジェットが、なぜ飛べるのか、というのも

実は解明されきっていないというような話も

あります。

航空力学的には、カブトムシが飛べるのは謎?

ようは、図体の大きさにたいして

羽の大きさとか、羽ばたくスピードなどを懸案してみたら

飛べないはず・・・なのに飛んでいる

ということだそうです。


で、最近なのかは、わかりませんが、

どうやら、鎧のような殻と膜のような羽との作用で

電磁的な作用が起こっていて、地球の磁場と干渉して

浮力を生み出しているらしい、ということがわかったそうです。

普段見えている鎧のほうは、羽ばたいていないので

浮力の足しになっていると思いにくいのですが

どうも、そういうことらしいと・・・。

(多分、流体力学的な作用はあるとおもいますけれど)


これは、反重力装置であると言えます。

いまだ、グラビトンの発見か?というようなところで

重力とは何ぞや?というところかとおもいますが、

羽ばたくことなく、浮くということは

そういうことになります。


と、これくらい一緒に暮らしている虫達は

奇跡的な存在であるということが言いたかったわけですが、


それでは、

虫が、生きて動いている

樹液を吸い、求愛し、交尾し、子孫を残し

している、

虫が生きていること・・・。


生きていること・・・。


が、当たり前である奇跡。


命とは何であるのか?


さて、これは深遠なテーマです。

ですから、どのような視点で、どれくらいの広がりを

もって語れば妥当であるか、ということの検討事体が

また深遠になってしまいますが、


茫漠な果てしない宇宙のなかに、

虫として、人として現れるとき

その宇宙そのものの現れから、

小さく切り離されているように見える命

無限大の命から、小さな命が生まれているように

見える、その仕組みがあるとすると

それが、ガイアの法則という著書に詳しいですが

螺旋運動がひとつのポイントとなります。


例えると、お風呂のお湯がはってあり

排水溝には栓がしてあると、

お湯は溜まったまま、

水滴が落ちたりしなければ

水面も動くことはない。

そこから、排水口の栓を抜くと

だんだん流れ出て、ある時から

渦巻が発生します。

これが命の現れです。


均一なお湯のなかに

渦として視認できる状態がある、

宇宙は命の総体であり全部であるとすると

宇宙は命です。

その中に、いろいろな現れ方をするというとき

一つの原理が、渦、螺旋という事象として

発現します。


そして、コマのように、

紐を螺旋に巻きつけて、

回転力をつけて放つと、しばらく

回っています。

紐の干渉は最初だけです。


そして、いつぞやバランスを失って

止まる。

これが独楽の一生だとすると。

私達の人として、このフィジカ、すなわち

形而下にある状態というのは

放たれた螺旋の動きが、いっとき

マトマツタもの、ということになります。


DNAは螺旋状に編まれており

筋肉は螺旋状に構成されており

血流は螺旋状に流れており

とその働きは微に入り細に入り

働きを顕現しています。


私達は、それを感じて生きているでしょうか?

地球の自転が体感的にわかりにくいように

無限大の命の表れが、今ココにある自分であると

いうことの意義・意味は

とても自覚しにくいものかもしれません。


私達の生活、その総体である社会

が変わるとしたら、個々人の自分自身が

何者であるかの自覚が変わるとき

以外にはないでしょう。


さー、自分とは?


本日もお読み頂き

ありがとうございました。

彌栄坐せ、イヤサカマシマセ


合掌





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