名闇を晴らす
今日も、お日柄よく。
日日是好日(にちにちこれこうじつ)
と、柔らかな風がそよいでいます。
本日は、
「名闇を晴らす」
という当て字をしまして、
”悩み”について考察して、昨今の様相を
晴らすための一助となれれば、これ幸甚と思います。
以前、フェイスブックに
このような事を書きました。
以下がそうです。
”スサナルノ尊が退治なされた、
八つ頭の大蛇(巳)とは、
恨巳、辛巳、妬巳、嫉巳、嫌巳、僻巳、やっか巳、憎し巳
(うらみ、つらみ、ねたみ、そねみ、いやみ、ひがみ、やっかみ、にくしみ)
是すなわち、ヤマタノオロチなり。
(頭の中に住む愚かな知:愚痴)
八塩折之酒(やしおりのさけ)にて、酩酊し
討ち取られし様を教訓とせよ。
「みんな 見ろ. これが身内にすくう憎しみと恨みの姿だ.
肉を腐らせ 死を呼び寄せる呪いだ.
これ以上. 憎しみに身を委ねるな.」byアシタカ
以上です。
大好きな映画、「もののけ姫」のアシタカヒコは
スサノオの尊を思わせる勇壮さと、どこか淋しげな
面持ちを持った登場人物。
私は、十数年ほど
健康に関して興味を持って、事物に接してきました。
この時節になって、
「免疫」という言葉が、これほど言われる
ことになろうとは思っておりませんでしたが、
予想される事体でした。
と申しましても、流行病と言うのは
今までもありましたので、
自分が生きている間に、起こるかどうか、
そしてそれに、どのように対処できるか、
ということになろうかと思います。
さて、免疫を下げる要因に
心因性のものがあります。
心因性とは、心に起因する
すなわち心運びが原因ということです。
ヤマタノオロチは
8つの愚かな知と表現しました。
知という漢字は
「矢」と「口」で出来ていますから
獲物にうまく届けば
糧にもなりますが、
自らに向かえば、自らが痛むという
ことになります。
知というのは、諸刃であるのかもしれません。
では、
8つの愚かな考え方をみていきましょう。
●恨み・・・不利益を受けた、として不満や不快感を心に抱き続ける。
●辛み・・・漢字源では、象形。鋭い刃物を描いたもので、
刃物でぴりっと刺すことを示す。転じて、刺すような痛い感じの意。
●妬み・・・他人が持っていることを羨む。
●嫉み・・・自分が持っていないことを嘆く。
●嫌み・・・相手の真意に関らず、不快なものとして受け止めること。
●僻み・・・ひねくれた考えを持っている様子や、その気持ちそのもの。
偏見が含まれた考えや思い。
●やっかみ・相手の成功や優れた点を見て、たまらなく嫌な気持ちになり、
何かしてやりたいような心境になること。
●憎しみ・・愛憎というように、愛が反転したような状態
「かわいさ余って憎さ百倍」など
かなり恣意的に列記しましたが
どれをとっても、不健康であることは一目瞭然です。
落ち着いているとき、平静なときに
見れば、こんな愚かしいことを為そうと
思うわけがない悲惨なことですが
そうなっている当人からすれば
一顧だにすることもないほど
そう思って、そう振る舞って当然だと
そうなっていることが自覚できない状態
それゆえ、自らに矢が刺さっていることも
わからず、苦しみに悶ている。
これは、原因をそとに求めてもどうしょうもない
ことです。
自らに問い返して、反省するしかありません。
反省するとは、省みるということですから
いったん落ち着いて、自らを観るということ
反省に懲罰的なニュアンスが付いてしまっていると
「反省」という字面だけで、ネガティブな受け取り方を
するかも知れませんが
「ふり返って観る」に罰則的なものは入っては居ないはずです。
「反省しなさい」といって、体罰をするとか、
ネグレクトするというのは、言葉を貶める行為だといえます。
例証してみましょう、
「反省しろ!!」といって叩いて、扉のそとに放り出す
というのと、
温かいお茶でも差し出して、「すこし顧みて考えてみてはどうか?」
と差し向けるのと、どちらが、自分のこれまでの有り様を
鑑みる、省みることができそうでしょうか?
私達は、心の働きや、親の思いやり、愛情よりも
態度の方を踏襲しがちです。ようは真似しがちということです。
ヤマタノオロチ退治を
スサノオの尊は、どうなされたでしょうか?
私が大事だと思うポイントが
いくつかあります。
まず、スサノウの尊は用意周到でした。
血気盛んに、真っ向勝負、切り結んで退治してやる!!
とはされてはいない。
神である自分の力を、過信してはいないということです。
言い換えると、無茶をせず、道理に従って処理する
ということを成された。
これが一点。
もう一つが、クシナダ姫を先に、匿ったことです。
何が大事かを、よく見定められた、ということ。
オロチを退治して、有名を轟かせてやる!
追放した奴らを見返してやる!!
とは成っては居ない、
どうすれば、大事な物を守れるか?
が第一義、大蛇退治はそのためにある。
大きな獲物を捉えたいからするのではない
名声、名利、欲心の満足のためにしてはいない
ということです。
先んず、大事なものは、無事なところへ
置いておく、危機にさらさせないわけです。
オロチ退治が目的なら、姫を餌にしたってよかった
はずです。酷いようですが、そんな輩は沢山います。
人間関係を犠牲にしてもいい、自分の優しい心
気高さ、品位、温情そんなものは要らないというような態度です。
さて、重要とおもわれるところは
これくらいにして、
実際的に、退治はどう成されたか?です。
クシナダ姫の、両親に頼んで
八塩折之酒(やしおりのさけ)を醸してもらい
それを餌に、オロチをおびき寄せ
さらに、オロチの首が一つしか入らない
狭い門を八つ、設置して、そこに樽を構える、
そうして、頭を分断しておいて、
門を閉め、そこで首を切り落とす。
という成し方です。
八塩折之酒というのは、
何段階も醸造をかさねた、アルコール濃度の高い
お酒のことです。
日本刀を精錬するとき、何回も鋼を折り返して
打ち出すように、醸されるということかと
思っています。
オロチは、その繰り返し醸された酒が好き
というのは、どういう事になるでしょうか?
恨んだり、嫉んだりする、というのは
一回で、きっぱり、すっきり、終わる
ということは、あまりないと思います。
よくあるのは、グジグジ、ウジウジ繰り返し想う、
罵詈雑言を心のなかで繰り返したり、
もっと言えば、妬んで、陰口を言ったり、
根も葉もない噂をばら撒いてみたりする、
要するに、どんどん煮詰まっていく方向にいく
もとから、素直な人は
そのようなスパイラルに入らない。
オロチは、オロチが好きで寄り集う
愚痴のあるところにより集い
世間を悪し様に云うところにより集いする、
他人のせいにするところにより集う。
本体は同じということです。
逆に言えば、繰り返し醸すというのは
「ほんとうにそれでいいのか?」
と何回も省みる
という事とも、とれるかもしれません。
愚かな知は、見分けがつかないくらい似ています
ですので、絡まり合う。ほかがほかを呼ぶような
それによって増幅していき、何がなにかわからなくなり
その働きにお手上げになってしまう。
その暴力性に、慄いて、大事な物を差し出してしまう。
クシナダ姫は、最後に残った娘です。
人間関係を犠牲にして
健康を犠牲にして
心の豊かさを犠牲にして
最後に残った娘は、命そのものかも知れません。
その大切な命を失わせたくないために
お働きになられたのが、スサノオの尊です。
ゆえに、まず平静なときに
備えて置かなければならない、
酒はすぐに醸されないし、
土木工事も、時間がかかります。
すでにおわかりの通り
これは、神話という形をとった
「心話」
そう心の話です。
ゆえに、常の観を省みる
自分は世界をどう見ているのか?
自分は、天地自然の道理
森羅万象を貫く真理にそくして
豊かに、健やかに、鮮やかに、活き活きとしているか?
愚かしさに脅されて、
大切な人間関係や、健康、心の豊かさを
安易に差し出していないか?
ということ。
スサノオの尊がされたように
一つ一つ観ていく、
自分は持っていないと、無いことばかりに目が言っていないか?
人の持っているものばかりを追って羨んでいないか?
自分を自分で腐して、刺して傷つけ痛めていないか?
人の意見を素直に受け止めているか?
誰かの成功を喜んでいるか?
自分の小さな枠のなかに誰かを押し込もうとしていないか?
など、です。
今、人々は、距離をとるように言われています。
それは翻って、近くに体はあっても
心の距離が遠かったことを、知らしめているかのようです。
心が繋がっている、そう感じられる人たちが
沢山いたなら、直接あえない今こそ
その豊かさに浴していると思います。
オロチの暴虐さに、
困り果て、悩んでいた
クシナダ姫の両親は、
スサノオの尊に、最後の娘を委ねました。
そして悩みは晴れました。
素直に生きるということは
自分勝手に生きるということでもないし
弱いままでいいとか、ダメなままでいいとか
そういうことを有り体に標榜して
努力を怠ることでもありません。
自分の命に尽くす、ということ。
できるだけのことを成す、ということ、
それは疲れ切ってしまったときには出来ない
前々からの備えがなければ出来ません。
今することはなんでしょう?
飢えないように、食物をそなえること
それもそうでしょうし
飢えても分け合えるような自分をつくること
もそうかもしれません。
しかし、大事なことは何か?
それを外して、何が出来るでしょうか?
「名こそ惜しけれ」という言葉があります、
平家物語が出典のようですが、
武士は、命よりも
己が何者で、いかな生き様であるかを尊ぶということ
タイトルを
「名闇を晴らす」としたのは
”あなたは何者として生きるのか”
自分を生きていない、
すなわち、名が闇に隠れている、
よって、
自分はこう生きるのだ!と
名を晴らしていく、自らを掲げて生きていく、
自らを携え、他人に預けず、自らを活かし
世の役に、人の助けになっていく、
それが、「天晴」な生き方かなと思います。
今回も、
お読み頂き、ありがとうございました。
弥栄を祈念いたしております。
合掌
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